スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ〜バージェス頁岩と生物進化の物語』渡辺政隆訳(ハヤカワノンフィクション文庫)を読んだ。
5億年前のバージェス頁岩から発見された数々の奇妙奇天烈な化石小動物群。
彼らは現在地球上に存在する生物たちの「祖先」なのか。
彼らは何者であり、何を意味しているのか。
著者によると、バージェスの生物群の多くは現生生物の祖先ではなく、偶発的な事情「非運多数死」によって姿を消した、進化の実験の産物たちであった。
そして、現在地球上に存在する生物は、たまたま偶発的な事情により非運多数死を免れた運のよかった実験の産物らしい(勝者という意味ではなく)。
「現在のような秩序は、基本法則(自然淘汰、解剖学的デザインの機構的優越)に保証されていたわけでもないし、まして、生態学のもっと低いレベルの一般法則や進化理論によって保証されたものですらなかった。現在のような秩序は、ほとんど偶発性の産物なのである。」
「バージェスを起点にして、テープを何百万回リプレイさせたところで、ホモ・サピエンスのような生物が再び進化することはないだろう。これぞまさに、ワンダフル・ライフである。」
いわれてみればそんな気もするけど、著者の説の通りであれば、他の惑星にも知的生命体が存在して、地球人類と接触できる可能性はまずなさそうだ。
これはあまりワンダフルなことではない。個人的には。
そうは言っても、妙ちくりんな古生物たちはおもしろい。
「オパビニア」とか「アノマロカリス」とか、スターウォーズに脇役で登場しそうな外見である。
以前、クリスマスプレゼントに『リアルサイズ古生物図鑑』をもらった長女はたいそう気に入って、進学先の県外にまでそれを持って行った。
ワンダフルな娘である。
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今日は衆議院議員選挙だった。選挙区は『野間たけし』と書いた。
誰に投票しても同じという輩がいるが、決してそういうことはない。
それは偶然の産物ではなく、多分に私たちの意志と選択によるものなのだから。
昨日は久しぶりに早朝の堤防沿いランに挑戦した。
4時過ぎに起きて、5時前に出発。思っていたよりもまだ真っ暗。
綺麗な星空が広がっていて、嬉しいことに天の川もうっすらと感じられた。
堤防に着いたらさらに真っ暗。ほとんど月明かりを頼りにゆっくり流す。
懐中電灯を手にウォーキングしている人に何度かすれ違う。
こういう時間帯は、不思議と「おはようございます」の言葉がごく自然に交わされる。
途中、暗闇の中から猫の鳴き声が。
立ち止まって目を凝らすと白っぽい猫がやってきて足にじゃれついてきた。
チリンチリンと鈴の音がするので飼い猫らしいが、こんな気持ちのよい早朝にこんな場所をうろついている詩的な猫がいるなんて。
これだから早朝の堤防沿いランはやめられない。
堤防沿いを往復した後、せっかくなので重富海水浴場の方まで行ってみる。
だんだん地平線が朝焼けてきて、頭上が蒼っぽく染まってくる。
雲ひとつない快晴。と思ったら、いつの間にか星たちは一斉に姿を消していた。
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約1ヶ月かけて、佐々木隆治『シリーズ◆世界の思想〜マルクス「資本論」』(角川選書)を読んだ。
資本論を読むと、なぜこの社会が大多数の人にとって生きづらいのかが、よくわかる。
なぜ、ワーキング・プアとか、過労死とか、非正規労働者とか、そういう問題がなくならないのか。
なぜ、いくら能力実績主義で勝ち抜いても、生産性を上げ続けても、「働き方改革」しても、幸せやゆとりを感じられないのか。
それが資本主義社会だから。
佐々木氏は本書の「第一三章 機械と大工業」でこのように言う。
「マルクスの時代に比べて圧倒的に生産力が高くなった現在では、利潤率が非常に低い水準まで低下しており、とりわけいわゆる先進資本主義国においてはこのことは顕著な傾向となっています。このような状況の中でおこなわれてきたのが、規制緩和や財政支出の削減などの「新自由主義的」な諸政策なのです。日本ではこのような政策は「構造改革」などと呼ばれ、あたかも「経済成長」を目的にしているかのように言われていますが、実際はそうではありません。」
「利潤率の低下が進み、それゆえ経済の停滞が著しい状況のなかで、そう簡単に経済成長を実現できないことは誰にでもわかります。「新自由主義的」諸政策の本当の目的は、経済成長ではなく、社会保障なども含めた労働者の実質的な取り分を減少させることにより、剰余価値率を高め、利潤率の低下を補うことにあるのです。」
「過度な労働時間による「過労死」がこれほど社会問題化しているにもかかわらず、むしろ、それに逆行するような、残業代不払いを合法化する法律の成立が資本によって要請されているのは、このような背景があるからにほかなりません。」
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パソコンでいくら仕事を効率化しても、それで生まれた時間は新たな仕事に使われるので、勤務時間内にできる仕事の量は増えるだけ。
それで誰が喜ぶのか。資本である。
週休2日制が週休3日制になっても、やるべき仕事はほとんど減らないのだから、おそらく出勤日の労働強度が増すだけだろう。
おまけに出勤日数が少ない分給料は減額するという。
喜ぶのは資本である。
それが成果主義で解決できると考えるのは甘い。
成果主義で喜ぶのも、実は資本なのだから。
「働き方改革」という名の「実はさらなる搾取」に踊らされている人たち。
みんなが「改善」と思っていることの多くが、残念ながら実は幻想である。
しかし、みんながそういう幻想を持ち続けていないと「やってられない」のが資本主義社会なのだと思う。
もうすぐ総選挙。たった一票でも、子どもたちのために投じようと思う。
トイレに座っていたら、外が何やら騒がしいので、窓を少し開けて見てみると、隣の空き地の梅の木にシジュウカラの群れがやってきていて、チーチー鳴き交わしていた。これはカワイイ。
というわけで、トイレでバードウォッチングするのが、チロル・チョコ的な楽しみなのだ。
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中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず〜斎藤秀雄の生涯〜』(新潮文庫)を読んだ。
斎藤秀雄(1902生ー1974没)は、日本における西洋音楽教育・オーケストラ育成に人生を賭けた音楽家で、今も世界レベルの演奏家を輩出する桐朋学園生みの親。
指揮者の小澤征爾を筆頭に、世界的に有名な演奏家の多くが斎藤の教えを受けた。
読んでみて強く感じたのは、斎藤の強烈な自閉症スペクトラム性。
極度のこだわり屋、頑固者であり、偏屈者。
もちろん、誰もが大なり小なりのスペクトラムを持っているものなので、スペクトラム自体をどうこう言うつもりはないが、斎藤の「常軌を逸した」と言っても過言ではない情熱とこだわりが、周囲を巻き込み、引きずり回し、日本の西洋音楽教育・オーケストラなどの水準を飛躍的に高めることとなった。
本書では、斎藤の生涯や偉業だけでなく、20世紀初頭の日本における西洋音楽演奏の黎明期を知ることができる。
死を目前にした最後の桐朋学園オーケストラの合宿での演奏シーン(斎藤はモーツァルトのディヴェルティメント(嬉遊曲)を振った)では、巻末の解説でも書かれているように、著者が最も描きたかった感動的な情景であろうが、一方で、失われた古き時代への喪失感、ある種のノスタルジックなものを感じるのは僕だけだろうか。
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斎藤の死後、小澤征爾氏らが発起人となり、今や世界中で活躍する斎藤門下の日本人演奏家たちが、期間限定の七夕オーケストラを結成した。それが現在の「サイトウ・キネン・オーケストラ」。
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラはいくつものCDを出している。
1989年、1990年に彼らが録音したブラームスの交響曲第4番と第1番は、まるでアマチュア・オケのような初々しさとヒリヒリするような熱が伝わってくる一期一会的な演奏で、今でも大好きなCDだ。1992年録音のチャイコフスキー:弦楽セレナード、モーツァルト:ディヴェルティメントニ長調、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」もよかった。
ただ、サイトウ・キネンは、4匹目、5匹目のドジョウを狙うレコード会社の商業路線に絡めとられたのか、常設オケ並みの頻度でCDを多発。
試聴しても、「上手いなあ」「綺麗だなあ」とは思うが、なぜか心に響かないので、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」以降は全く買わなくなってしまった。
ブラームスの1番は後年、カーネギー・ホールでのライヴ録音が発売され大絶賛されたが、試聴した限りでは、ドヤ顔的な迫力についていけなかった。
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本に戻る。
本書の中で作曲家の別宮貞雄はこのように語っている。
「斎藤先生は自分のやり方で教育した。しかし、そのやり方で生徒の芽を摘むことはなかったんです。ただ『早期教育』が驚くべき成果を上げてしまった。教えることが上手すぎたために100のところ90まで行った生徒はいるんです。プロをつくるという考え方で、彼は90パーセントは自然科学者のように音楽を教えた。しかし、教育によって天才はできない、教育によって達成されないことがあるのははっきり知っていた。教育は90パーセントのほうに関係があって、10パーセントの天才は教育を超越しているんです。しかし、戦後の教育は子供の創意工夫や人間の想像力ということが強調され、斎藤先生はそれに反するようなことをしたと言われている。才能のあるなしは最初からわからないんです。今や最後の10パーセントのところに眼が行っていて、下の90パーセントのことは忘れている」